2013/10/20

ミツバチのささやき[1973]


「なぜ怪物はあの子を殺したの?なぜ怪物も殺されてしまったの?」
 

















監督:ビクトル・エリセ
出演:アナ・トレント、イザベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス...


1940年代、内戦終戦直後のスペイン。
少女アナの暮らす小さな村に「フランケンシュタイン」の巡回映画がやってくる。
フランケンシュタインの怪物に魅せられたアナは、
姉の「村はずれの廃屋に怪物がいる」という嘘を信じ込んでしまう。
ある日、怪物を探しに廃屋を訪れたアナは、そこで脱走兵と出会うが…。




この映画は、内戦直後、混乱の最中にあったスペインが舞台で、
政治批判を色々な暗喩で表現しているらしいのですが、
わたくし、残念ながら無学なもので、スペインの内戦に精通しておらず、
この映画を理解出来たとは(全く)言えません。

スペイン内戦についてもっと勉強してから観ていればな〜と後悔中。


それにしても、主人公アナが可愛すぎて可愛すぎて。

アナの目線で綴られるこの映画。

私はどちらかというと、アナの姉イザベルのように早く大人になりたがっていたので、
こんなに可愛く純粋な時期があったかは分からないけれど。笑

けれど、幼少期を振り返ると、
確かに世界って途方もなく大きくもあり、ものすごく小さかった気もする。

眼前に果てしなく広がる荒野。
耳を澄まして聞こえてくる虫や鳥の声がやけにクリアで。

けれどそんな大きな世界に反発する様に、自分の世界はひどく小さかった。
世界といえば、家と学校が全てで。

だからこそ、行った事のないところへ行ったり、
知らない人と知り合うことは大冒険のような気がしていた。

現実と空想の違いも分からず、色んな境界線があやふやで、
もっと色々なものが純粋に混じり合っていた。

理論や常識という概念もなく、世の中の理不尽さに腹を立てたり悲しんだりもしていた。


子供だからこそもっている、世界観。
自分の中のルールというものがあって、純粋と同じくらい潔癖だった気がする。

幼さだと一笑される様なことも、本人にとっては立派に自分の世界。
そんなアナの世界に、大人たちが土足で足を踏み入れたとき、
完璧だった彼女の世界が壊れてしまったのかもしれない。


現実を知る。というのは、通過儀礼の様なもので、
大人になる前に誰もが一度は「現実を思い知った」ことがあると思う。

それはひどく残酷なようで、今になれば仕方ないとも思える。

むしろ、現実を思い知ることで、『現実』が身近になる。
そうして初めて、『現実』と『空想』の線引きがはっきりされるのだ。



現実に疲れてしまった大人は、果たして空想に浸るのだろうか。
いや、むしろ空想さえせず逃げるだけなのかもしれない。

劇中の父親然り、母親然り。


父親はミツバチの研究に夢中で、論文(?)を書いている。

「このガラス製のミツバチの巣箱では、蜂の動きが時計の歯車のように見える。
巣の中で、蜂たちの活動は絶え間なく、神秘的だ。
乳母役の蜂は蜂児房で狂ったように働き、他の働き蜂は生きた梯子のようだ。
女王蜂はらせん飛行。
間断なく様々に動きまわる蜂の群れの報われることのない過酷な努力。
熱気で圧倒しそうな往来。
房室を出れば眠りはない。幼虫を待つのは労働のみ。
唯一の休息たる死も、この巣から遠く離れなければ得られない。
この様子を見た人は驚き、ふと目をそらした。その目には悲しみと恐怖があった――」

母親も内乱で別れた昔の恋人なのだろうか、届くかも分からない手紙を必死にしたためる。

「誰もが幸福だったあの時代は戻りません。
神様が再会させて下さることを祈っています。
内戦で別れてから毎日祈っています。
この失われた村にフェルナンドと娘たちと生きながらえながら、
この家も壁以外はすっかり変わりました。
中にあったものはどこに消えたのか――。
ノスタルジアで言うのではなく、そんな思いなど持つどころではないこの数年でした。
身のまわりの多くのものが失われ、壊され、悲しみばかりが残っていきますが、
失われたものと一緒に、人生を感じる力も消えたように思います。
この手紙はあなたに届くのでしょうか。
外からの知らせはわずかで混乱しています。
あなたが無事でいることを知らせてください。心を込めて。」


受け入れる事も立ち向かうこともままならず、現実の厳しさから目を背ける。
逃げる事を、汚い大人、弱い大人と罵る人もいるだろうが、
疲弊した心に、夢も希望も生まれない。

劇中に出てくる詩が、疲弊した大人たちの心を、
ひいては当時のスペインの心を表していると思う。

もはや、怒りも軽蔑もない
変化の恐怖もない
渇きがあるのみ
あまりの渇きで死にそうだ
命の流れよ、どこに進む?
清らかな大気がほしい
暗い深みには何がある?
何を震え、何を黙る?
私に見えるのは、目の見えぬ人が陽の下で見るものだ
二度と起き上がれぬ奈落に落ちる

 (これは、19世の女流詩人ロサリア・デ・カストロの詩らしい。)


傷ついた心を癒せるのは何なのだろうか。
どうしたら現実を受け入れることができるのだろうか。
時間が解決してくれるのだろうか…


最後にアナが窓際に立ち、「わたしはアナよ」と呟くシーンがある。
これは、精霊(フランケンシュタインの怪物)を呼ぶ言葉でもあるが、
映画前半とこの最後では、同じ台詞でも正反対の意味になるのではないかと思う。

自分の名を呟いて、アナは『現実』への扉を少しだけ叩いたのではないだろうか。

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